AOHITOブログ

キャリア30年以上のライターが「文章」について語るブログ(本と車も)

ブックレビュー『うひ山ふみ』本居宣長著

「勉強方法」を教えてくれる教科書

私は現存する日本最古の書物である古事記が大好きです。

これを読んだことで、日本という国を心から愛するようになりました。

 

その『古事記』を私たち現代人が読むことができるのは、

江戸時代中期の国学者である本居宣長が、

古事記伝』という注釈書を著してくれたからです。

 

古事記伝』の完成までに、

なんと35年もの年月がかかっているとのこと。

 

宣長のこの偉大な功績のおかげで、

それまで日本書紀』の影に隠れていた『古事記』の存在価値が高まり

日本の古典を代表する書物として、今も広く読まれ続けています。

 

その意味で、私は本居宣長という人物がずっと気にかかっていました。

 

実は数年前に、

小林秀雄さんの『本居宣長をなんとか通読したことがあります。

 

かなりの部分が難しくて理解ができなかったものの(苦笑)、

それでも多くの学びを得ることができたと思っています。

 

ところがうかつなことに、

宣長本人の著書を1冊も読んでいなかったことに、あるとき気づきました。

 

そこでたまたま手に取ったのが、

今回紹介するうひ山ふみだったのです。

 

最初はタイトルの意味すら分かりませんでしたが、

「うひ」が「初(うい)」であることを知り、

直訳すれば、「初めての山あるき」となることがわかりました。

 

意訳すれば、

「学問(という険しい山)に足を踏み入れる初心者への手引き」

といったところでしょうか。

 

いわゆる古典の勉強方法やお勧めの書物、学問に取り組む心得などが、

かなり詳しく説明されていることがわかりました。

 

今回読んだものは現代語訳ではありませんでしたが、

古典の中でも現代寄りの江戸時代中期の文章ということで、

意外なほど意味がわかりやすく感じました。

 

一言一句正確に読めたかどうかまでは自信がありませんが、

おおよその内容は理解できたように思います。

 

それでは特に印象に残った箇所をいくつか抜粋し、

感じたことを少しずつ書き添えてまいります。

 

「励ましの言葉」と「読書法」について

(ここから引用)

不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有ル物也。又晩學の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり。又暇(イトマ)のなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也。されば才のともしきや、學ぶ事の晩(オソ)きや、暇のなきやによりて、思ひくづをれて、止(ヤム)ることなかれ。

(引用ここまで)

 

この箇所を読んで、私は大いに励まされました。

 

私自身、明らかに不才であり、晩學であり、

暇も十分にあるわけではありませんが、

それでも日々努め励めば、

何かしら成果をあげられるのではないか――。

 

そんな希望がふつふつと湧いてきたのです。

序盤から宣長に勇気づけられたような気がしました。

 

(ここから引用)

いづれの書をよむとても、初心のほどは、かたはしより文義を解せんとはすべからず、まづ大抵にさらさらと見て、他の書にうつり、これやかれやと續ては、又さきによみたる書へ立かへりつゝ、幾遍もよむうちには、始に聞えざりし事も、そろそろと聞ゆるやうになりゆくもの也。

(引用ここまで)

 

これは本の読み方を説明している箇所だと思われます。

 

確かに本を読んでいる最中、

意味が分からない文言に出くわすと、

いちいち調べなければ先に進めない、と思うことがあります。

 

しかしそれにこだわり過ぎると、

すぐに疲れて集中力がそがれてしまうことも多いものです。

 

それよりも、とりあえず「さらさらと」読み進めて、

他の本を読んだあとで、もう一度読み返すなどすれば、

分からなかったところが改めて理解できる場合があるといっています。

 

特に肝心な部分は、

読んでいる途中でも意味を調べたほうがいいと思いますが、

多少わかりにくい程度なら、

どんどん先に読み進むことが大事だと思えるようになりました。

 

万葉集』と『古事記』を学ぶ大切さ

(ここから引用)

萬葉集をよく學ぶべし。みづからも古風の哥(うた)をまなびてよむべし、すべて人は、かならず哥をよむべきものなる内にも、學問をする者は、なほさらよまではかなわぬわざ也。哥をよまでは、古(いしにへ)の世のくはしき意、風雅(みやび)のおもむきはしりがたし。

(引用ここまで)

 

万葉集をよく学ぶとともに、

自分でも和歌を詠むことが大事だという意味でしょう。

 

古歌を学びながら、自分でも歌をつくる経験を積むことで、

昔の世の中のことがより詳しく想像できるようになり、

歌に込められた作者の心や情趣を理解できるようになるのだと思われます。

 

ちなみに万葉集は、以前ひと通り最後まで目を通しました。

 

しかし、しっかり理解したといえるレベルにはほど遠く、

ようやく勉強のスタート地点に立てたかどうか、

という段階だと感じています。

 

むしろ、「こんなに奥深い古典の世界があったのか」と驚き、

そのすごさに打ちのめされたというほうが正確かもしれません。

 

そんな気持ちになれたからこそ、

「死ぬまで学び続けなければいけない」

という気持ちがいっそう強くなったともいえます。

 

また、私は数年前から短歌の練習を始めました。

 

といってもこちらはサボりがちで、

まだまだつたないものしかつくれませんが、

ほんの少しだけ、歌を詠む楽しさが感じられるようになったと思います。

 

もっと上達して、

万葉集』をはじめとする日本の古典を深く味わえるようになりたいものです。

 

(ここから引用)

道をしらんためには、殊に古事記をさきとすべし。(中略)まことに古事記は、漢文のかざりをまじへたることなどなく、たゞ古よりの傳説のまゝにて、記しざまいといとめでたく、上代の有さまをしるにこれにしく物なく、そのうへ神代の事も、書紀よりは、つぶさに多くしるされたれば、道をしる第一の古典にして、古學のともがらの、尤尊み學ぶべきは此書也。

(引用ここまで)

 

古事記』や『日本書紀』を学ぶことは、

「道を知る」ことだと宣長は繰り返し述べています。

 

推察するに、

儒教や仏教の影響を受ける前の「日本の本来の心」が、

記紀」には記されているということなのでしょう。

 

「古學のともがら」という表現も、

同書に何度となく出てきます。

 

「ともがら」とは「仲間」とか「同輩」といった意味であり、

門人や読者のことを「ともに古典を学ぶ仲間」だと宣長は見ていたのです。

 

その温かい気持ちが、なんとも嬉しく感じられたものです。

 

読書後の「アウトプット」の重要性

(ここから引用)

古書の注釋を作らんと云々。書をよむにたゞ何となくてよむときは、いかほど委く見んと思ひても、限(リ)あるものなるに、みづから物の注釋をもせんと、こゝろがけて見るときには、何れの書にても、格別に心のとまりて、見やうのくはしくなる物にて、それにつきて、又外にも得る事の多きもの也。

(引用ここまで)

 

古典を読むとき、その注釈をつくる前提で読めば、

より詳しく読めるようになり、理解が深まり、

他にも得るものが多いという意味だと思われます。

 

これは、

「読書後に何らかのアウトプットをすることが大事である」

ととらえてもいいのではないでしょうか。

 

読書のコツを記した本に、

「読んだあとでアウトプットをすれば、理解が深まり、記憶にも刻まれる」

といった意味のことが書かれていることがあります。

 

これと似たようなことを、

宣長も教えてくれているのではないかと私は受け取りました。

 

このように、本書全体を通して、

「何をどういうふうに勉強すればいいのか」ということを、

かなり具体的にアドバイスしてくれています。

 

私自身も晩学かつ非才とはいえ、宣長の助言を参考に、

まだまだこれからだと思って勉強していくつもりです。

 

個人的には「これを中学生のときに読みたかった」と思いました(笑)。

 

現代語訳も出ているようなので、

多くの方にお読みいただければと願っています。

講談社学術文庫版のご案内となります。