AOHITOブログ

キャリア30年以上のライターが「文章」について語るブログ(本と車も)

ブックレビュー『読書について』より「思索」ショウペンハウエル著

「鵜呑み」「思い込み」「バイアス」の危険性

「読書の功罪」について考えることがあります。


例えば

「尊敬するあの先生の著書だから、書いてあることはすべて正しい」

と思い込むことには、大きな危険がはらんでいます。

 

なぜなら、書き手を妄信した時点で、

その読み手は「自分の頭で考えること」を放棄しているからです。

 

仮にその本に書かれていることが「100%真実」であったとしても、

自分の頭で考えることを止めて、

一言一句鵜呑みにしてしまうべきではないと考えます。

 

理想をいえば、

活字に目を通して脳にインプットしたあと、しっかりと自分の中で咀嚼し、

可能な限りバイアスを排除し、一度交通整理をすることが重要です。

 

そのうえで、

学んだことをもとにして自分の頭で考え、

自分の言葉でアウトプットできれば、

それは単なる「鵜呑み」や「受け売り」ではなく、

「自分の思索」に昇華できたことになるのでしょう。


しかしそれが常に100%できているのかどうかと問われれば、

正直にいって非常に心もとないものがあります。

 

というのも、

私にはすでにいろいろな「バイアス」がこびりついていて、

しかも「自覚していないバイアス」がある可能性もあるため、

これを完全に排除するのはたいへん困難だからです。

 

例えば冒頭で述べたように、

「あの先生の本だから、きっと正しいに違いない」

と思い込んでいる節があります。

 

あるいは、

「あのメディアの報道だから、きっとウソか悪意の切り取りに違いない」

と決めつけているときもあります。

 

これらはいずれも「自分の頭で考えていない」状態であり、

その話題について自分で真剣に調べることもしていません。


誰の言葉だったか失念しましたが、

「自分の頭で考えることほどたいへんなことはない」

という意味の文章を読んだことがあります。

 

それを鵜呑みにするわけではありませんが(笑)、

考えることがたいへんなのはまず間違いないでしょう。

 

たいへんだからこそ、安易に信じたり、安易に否定したりして、

「楽をしよう」としているのかもしれません。

 

しかしそれでは本当に学んだことにならないし、

真の意味で成長もできないのでしょう。

 

自分の中に「羅針盤」を持つ

以前、たまたま一冊の本を手に取りました。

 

書棚に長年眠っていたショウペンハウエルの『読書について』です。

 

その冒頭部分に「思索」というタイトルのわずか15ページの文章がありました。

 

ここには「思索の重要性」と「読書の危険性」について、

さまざまにいい方を変えて説明されていました。

 

(ここから引用)

読書は思索の代用品にすぎない。読書は他人に思想誘導の務めをゆだねる。(中略)だが自らの天分に導かれる者、言い換えれば自発的に正しく思索する者は正しい路を発見する羅針盤を準備している。それで読書はただ自分の思想の泉が枯れた時のみ試みるべきで、事実、最もすぐれた頭脳の持ち主もやむなく読書にふけることもよく見うけられることであろう。しかしこれとは逆に本を手にする目的で、生き生きとした自らの思想を追放すれば、聖なる精神に対する叛逆罪である。

(引用ここまで)

 

ショウペンハウエルは決して「読書をするな」と言っているわけではなく

「ただ本を手にする目的」で読書をしても、

正しく思索していることにはならない、

と警鐘を鳴らしているのではないでしょうか。

 

そして「自分の中にしっかりとした『羅針盤』を持て」

と忠告してくれているのだと個人的に感じました。


次の指摘も面白いと思いました。

 

(ここから引用)

(※前提部分の要約:特別に学問に取り組んだことがない人でも、常識や正しい判断、物事の分別がきちんとある。なぜなら)この人たちは経験と対話とわずかの読書で集めた乏しい知識を、いつも自分の考えで支配し統一しているのである。さて体系的な思想家もこの手続きをふむ。ただしいっそう大規模に行なう。つまり思想家には多量の知識が材料として必要であり、そのため読書量も多量でなければならない。だがその精神ははなはだ強力で、そのすべてを消化し、同化して自分の思想体系に併合することができる。つまり絶えず視界を拡大しながらも有機的組織を失わない壮大な洞察力によって、その材料を支配することができるのである。

(引用ここまで)

 

まさに「読書とはかくあるべし」というところでしょうか。

 

読書によって得た大量の知識をすべて消化して、それを完全に支配できれば、

もはやその読書は「他人の頭が考えた思想の詰め込み作業」ではなくなり、

「自らの思索を深める作業の一環」という位置づけに格上げされているのです。

 

「知識の所有」と「知恵・理解力の体得」との違い

スマイルズの『自助論』にも、これに近いことが書かれていました。

 

(ここから引用)

単なる知識の所有は、知恵や理解力の体得とはまったくの別物だ。知恵や理解力は、読書よりもはるかに高度な訓練を通じてのみ得られる。一方、読書から知識を吸収するのは、他人の思想をうのみにするようなもので、自分の考えを積極的に発展させようとする姿勢とは大違いだ。

(引用ここまで。スマイルズ『自助論』より)

⇒ブックレビュー『自助論』スマイルズ著 - AOHITOブログ

 

私はこれからも本を読んで勉強を続けることになります。

 

あるいは尊敬する先生の講習を受ける機会もあるかもしれませんが、

基本的には読書を通して自分を高めていくことが中心となるでしょう。

 

きちんと意味のある勉強をして、自分を成長させていくためにも、

「読書の功罪」を理解しておくことには、大きな意味があると考えています。