AOHITOブログ

キャリア30年以上のライターが「文章」について語るブログ(本と車も)

ブックレビュー『万葉集のこころ 日本語のこころ』渡部昇一著

大和言葉」と「漢語」の混じり具合で文章の性格が変わる

 

渡部昇一先生の万葉集のこころ 日本語のこころ』は、

たった1冊で5冊分くらい教わったような読み応えがありました

 

内容が非常に充実していて、

紹介するポイントを絞るのさえ難しく感じられますが、

ともかく思いつくままに感想を述べていきたいと思います。

 

まず、万葉集のこころ」とタイトルにありますが、

本書は万葉集を起点として、


「和歌は基本的に大和言葉のみで詠まれてきたこと」

「日本人の魂のふるさととしての大和言葉

「古来、日本人は『和歌の前に平等』であり続けたこと」

「和歌、大和言葉における『言霊信仰』について」

大和言葉に漢語(≒外来語)が混入していった経緯」

「漢語の混入比率の違いによる文章等の性格の違い」

「外来語の混入の歴史に焦点を当てた欧州の言語との比較」

「日本語は日本人の精神的私有財産であること」


といったテーマについて幅広く、かつ奥深く論じられています。

 

これらの中から、本記事では、

大和言葉に漢語(≒外来語)が混入していった経緯」

「漢語の混入比率の違いによる文章等の性格の違い」について概要を紹介し、

感想を述べていくことにしましょう。

 

渡部昇一先生によれば、もともと日本では、

大和言葉だけで会話も文章(散文)も和歌も成り立っていたとのことです。

 

例えば古事記にしても、万葉集にしても、

漢字を大和言葉に当てはめた「万葉仮名」で記述されています。


同時に、奈良時代当時のインテリ層(皇族や貴族)は、

中国から輸入された「漢語」もマスターしていました。

 

その証拠に、近い時期に成立した日本書紀は堂々たる漢語で記され、

懐風藻という漢詩集も残されています。

 

つまりインテリたちは、外国語(漢語)を十分習得していながら、

和歌や通常の文章は「あえて大和言葉だけで」書いていたのです。

 

文章に関しては、平安時代に入ってからも、

源氏物語あたりまでは漢語をほとんど用いておらず、

官位を示す称号などで一部使用されていただけでした。

 

その後、平家物語鎌倉時代に成立)になると、大和言葉の文章の中に、

諸行無常」といった仏教用語的な漢語が混入するようになります。

 

時が経ち、太平記室町時代に成立)になると、大和言葉の文章の中に、

漢詩や漢文の言葉がさらに多く使われています。

 

つまり太平記』が記された時代には、

「文章における大和言葉と漢語の混合度合い」に関して、

すでに「現代語に近い形」に変化していたと考えられるそうです。

 

そうした経緯を経て、物語等の文章においては、『太平記』以降、

大和言葉と漢語をミックスして表現するのが当たり前になったのです。

 

これに対して「和歌」「俳句」といった詩歌については、

さらに時代は下って、かの三島由紀夫の辞世に至ってもなお、

大半が大和言葉のみ」で詠まれ続けていました。

 

日本語の文章における大和言葉への漢語の混合割合の多寡」に関して、

渡部昇一先生は次のような傾向があると指摘されています。

 

(ここから引用)

(1)心が内向的になっているときは大和言葉になり、心が外向的になっているときは漢語を多く使う。

(2)心が、何かなつかしいものを抱きしめたいような気持のときは大和言葉になり、心が野心に満ち、征服的な気持ちになっているときは漢語が多くなる。

(3)魂に、または気負いのない情緒に直接にすうっと触れるようなときは大和言葉になるが、精神が知的に働き、対象との間に距離があるときは漢語が増える。

(4)恒久的な価値のある和歌や俳句はほとんど百パーセント大和言葉から成り立っているが、学術論文ではむしろ大和言葉は従になっている。

(引用終わり)

 

このあとも、

大和言葉は柔らかい感じがして、漢語は堅い感じがする」

といった説明が続いていました。

 

つまりこの千数百年の間に、

大和言葉と漢語の併用・融合・使い分けが行われた結果、

上記のような傾向が、私たちの言語に定着したということなのでしょう。

 

こうした日本語の特色について、

渡部昇一先生は次のようにまとめておられます。

 

(ここから引用)

 日本語はこのように、大和言葉と漢語の混じり方の比率によっていろいろな局面をそれにふさわしく表現する。和歌や俳句を作る人が意識的に大和言葉を使おうとしたり、論文を書く人が故意に漢語を多く使おうとするわけではない(なかにはそういう人もいることは否定しないが)。自分の知的活動や、情緒を自然に書き表すとだいたい以上のべたようになるのである。それで大和言葉と外来語の組み合わせのやり方によっては、日本語というのは独特の効果を出しうる。

(引用終わり)

 

私はライターという職業柄、常に「散文」を書いているわけですが、

確かにやわらかく表現するときには大和言葉の比率が上がり、

何かをしっかりと論じようとするときには漢語の比率が上がっています。

 

そうした「書き分けの傾向」そのものが、

日本語の大きな特徴だったということに、

本書を読んで改めて気づくことができました。

 

それ以降、文章を書いていくうえで、

大和言葉を使う効果と、漢語を使う効果について、

きちんと意識しながら一文一文組み立てていきたいと思っています。

 

実は以前、小林秀雄さんの本居宣長を読んで以来、

大和言葉というキーワードが私の意識の中にありました。

しかしながら、「大和言葉」を使う意味や「大和言葉」そのものについて、

まだまだ勉強も理解も足りていませんでした。

 

本書に出会ったことで、

大和言葉についての考え方が少し深まったように感じられます。

 

本を1冊読むたびに、いつも自分の勉強不足を痛感させられますが、

「自分が何を知らなかったのか」を知ることができるのは、

とても嬉しいことだなと思います。

 

オックスとビーフ、日本語と英語の共通点

 

ちなみに、なぜ英語で「生きた牛」を「オックス」といい、

「牛肉」を「ビーフ」というのかについては、

次のように説明されていました。

 

すなわち、かつてのイギリスでは、

牛を飼う労働者階級の農民は、

日本の大和言葉にあたる古い英語(ゲルマン語)の「オックス」を使い、

牛肉を食べる上流階級の人たちは、

漢語にあたる外来語の「ビーフ」を使っていたそうです。

 

その後時代を経て、

労働者階級の言葉と上流階級の言葉が混じり合った結果、

「生きた牛」は「オックス」、

「牛肉」は「ビーフ」と呼び分けるようになったとのことです。

 

そして、この「古い言葉と外来語とのミックスの仕方」について、

日本語と英語はとてもよく似ているらしいのです。

 

写真の大量の付箋が物語っているように、

私にとっては興味深いことしか書かれていない素晴らしい書籍でした。

日本語を愛する多くの方々に、ぜひ手に取っていただきたいと願っています。