「天は人の上に人を造らず」の本当の意味とは?
福澤諭吉の著書である『学問のすゝめ』を現代語訳で読み直しました。
前に原文で読んだことがあり、
心にぐさりと刺さる箇所も多かったのですが、
文語体ゆえに意味がつかみにくく、
理解が及んでいない箇所もあったように思います。
改めて読んでみて、
やはり非常に重要な「人生の必読書」であると再認識しました。
以下、同書からの引用を交えながら、
自分なりに感じたことを述べてまいります。
(ここから引用)
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われている。
(中略)
しかし、この人間の世界を見渡してみると、賢い人も愚かな人もいる。貧しい人も、金持ちもいる。また、社会的地位の高い人も、低い人もいる。こうした雲泥の差と呼ぶべき違いは、どうしてできるのだろうか。
その理由は非常にはっきりしている。『実語教』という本の中に、「人は学ばなければ、智はない。智のないものは愚かな人である」と書かれている。つまり、賢い人と愚かな人との違いは、学ぶか学ばないかによってできるものなのだ。
(引用ここまで)
「天は人の上に~」という冒頭の一文はあまりにも有名で、
知らない日本人はいないのではないかと思われるほどです。
しかし、まだ本書を読んでいない方の多くが、
「人はみな平等である」
という理解にとどまっているのではないかと思いました。
福澤諭吉は、
人間の権理(同書では「権利」ではなく「権理」と記述)は平等であるとしながら、
それでも人によって大きな差が生じているのは、
ひとえに学問の有無によると主張していたのです。
だからこそ、
「誰もが学問を修めて知恵と能力を高め、
一人ひとりが経済的にも精神的にも独立して豊かな人生を築き、
西欧に負けない独立国家をつくっていこう」
と訴えかけているように感じました。
おそらくそういう意味で、
『学問のすゝめ』というタイトルがつけられたのでしょう。
少なくとも私はそのように理解しました。
100年後200年後の子孫のために
(ここから引用)
いまより数十年後、後の文明の世では、いまわれわれが古人を尊敬するように、そのときの人たちがわれわれの恩恵を感謝するようになっていなくてはならない。
要するに、われわれの仕事というのは、今日この世の中にいて、われわれの生きた証を残して、これを長く後世の子孫に伝えることにある。これは重大な任務である。
(引用ここまで)
この部分を読んだとき、私は心から感動しました。
私自身、かねてよりこれに近い気持ちを抱いていたからです。
私たちが豊かで文明的で自由な生活を送ることができるのは、
世の中のあらゆるものを発明し、
何百年何千年かけて進歩させてきた先達のおかげです。
そして激動の時代において、
日本国の自由と独立を護ってきた先人たちのおかげでもあると思っています。
あまたの人たちの命がけの努力による恩恵のうえに、
私たちの現在の幸福な生活があるのではないでしょうか。
もちろん、もうこの世にいない古人に直接恩を返すことはできません。
であるならば、私たちがなすべきことは、
私たちの子孫である100年後200年後の人々のために、
この素晴らしい日本という国を護りながら、
世界の平和と幸福と進歩に貢献していくことであるはずです。
「ではAOHITO、お前に何ができるのか?」と問われれば、
微力な自分を恥じ入るしかありません。
しかしながら、微力を尽くし続けることが、
自分の責務であるように思えてなりません。
明治時代≒現代のネット社会?
(ここから引用)
人間の付き合いの中で、面識のない相手のやったことを見る場合、もしくは、その人の言ったことを遠くから伝え聞いて、それがわずかでも自分の考えと合わない場合などには、互いをいたわりあう気持ちが生まれず、かえって相手を嫌いになって過剰に憎むということも多い。これもまた、人間の本性と習慣によるものだ。
物事の相談では、伝言や手紙ではうまくいかなかったことでも、実際に会って話してみるとまるく治まることがある。
(引用ここまで)
ここを読んだ瞬間、
私はすぐさま「現代のネット社会」を思い浮かべました。
実は明治初期の人たちも、
今の私たちと同じような問題を抱えて生きていたことがわかったのです。
違うのは、インターネットの普及による「情報の多さ」と
「スピードの速さ」と「関わる人の多さ」といったところでしょう。
SNSはとても楽しいものですが、
同時にイライラさせられることも少なくありません。
しかし、昔から人間とはそういうものだったのだと思えば、
少し気が楽になり、いくぶん冷静になれるのではないでしょうか。
「時間のかかり方」を計算すること
(ここから引用)
世間で事を企てている人の言葉を聞くに、「一生のうちに」だとか、あるいは「十年以内にはこれを成す」という者は最も多い。「三年のうちに」「一年のうちに」という者はやや少なくなり、「一月のうちに」「今日計画して、いままさにやる」という者は、ほとんどいない。「十年前に計画していたことは、もうすでにやり終わったよ」というような者に至っては、いまだお目にかかったことがない。
(中略)
その計画の経過をはっきりと言えないということは、結局、事を企てるに当たって、時間のかかり方を計算に入れないことから生じているのである。
(引用ここまで)
これもまた、私の胸にぐさりと刺さった部分です。
平成27(2015)年に私の初めての著書が出版されたあと、
これをできるだけたくさん売っていきながら、
さらに勉強して2冊目3冊目の著書を出したいと願って過ごしてきました。
しかし現時点でその願いは実現していません。
いくつか次回作の構想は持っていますが、まだまだ勉強が不十分で、
「これも学ばなければ」「これも読まなければ」と思っているうちに、
あっというまに何年もの月日が過ぎ去ってしまいました。
もちろん少しずつ積み重ねている部分はあると思いますが、
このままでは目標達成までどれくらいかかるのか見当がつきません。
もっと「時間のかかり方」を計算して、
計画を進めていかなければならないことがよくわかりました。
さて、『学問のすゝめ』には、
これら以外にもぜひ紹介したい内容がたくさんあります。
しかしその量が多すぎて、
ブログではとても紹介しきれないのが残念です。
機会があれば、
多くの方々に手に取っていただきたい名著中の名著だと思っています。
原文はやや難しいので、全体をよく理解するためには、
このちくま新書の現代語訳をお勧めしたいと思います。